ゲームの「難易度」の評価

某海外ゲーム専門Webマガジンの「後半が簡単すぎる」というとあるゲームの批評に対して、「最高難易度がこのゲームの本番」「ストーリー重視のゲームだから」「ゲームのうまい人前提で書いている」というネットの書き込みを見かけたのだが妙に違和感を感じた。
というのも難易度という評価も根本的な面白さの評価と同様、結局プレーヤーによって変わってくると思うからだ。
最高難易度ならやり応えが出ると言っても、大半のプレーヤーにとっては最も選択するであろう難易度はノーマルが最初であろうし、ゲームをクリアした時点でそのゲームに満足した(買ってよかった)と思ったら2週目をプレイせず次のゲームに移る人が多いだろう。現に自分も最高難易度でなくその下のハードでクリアしたが2週目をプレイしていない。
また、人によってゲームの楽しみ方も変わってくるだろうから、ストーリー重視のゲームだとしてもジャンルがアクションゲームなら、やり応え要素や主人公を操作する気持ち良さを味わいたいという人もいるだろう。
他人のプレーヤー前提で書く必要があるというのであれば、上記の要素だって考慮する必要だって出てきてしまう。
更にいえば公平な評価っていうのは非常に難しいものだ。
「自分には簡単すぎたが、もしかしたら他人には難しく感じるかもしれない」「難しかったが、人によっては簡単だろう」こんな評価を求めているのか?なんなんだこの曖昧な文章。
「自分には合わないけど、プレイする人によっては面白いと思う」「神ゲーだが、糞ゲーでもある」これと同様である。レビューや批評する意味ないじゃないか。
自分は自分、他人は他人。
他人の意見を考慮してたら、レビューアーが4人いるのに全員同じような点数付けるファミ通レビューみたいになる。多数の意見を集約できないのであれば、一人いりゃ十分じゃねーか。


自分も某海外ゲーム専門Webマガジンの批評を見て自分の意見と全く違うと思うことが何個もある。
例えば「Dinner Date」。その人にとってはギャグゲーにしか見えなかったらしいが、俺にとっては完全な失恋シミュレーションゲームだった。タイトルから彼女と食事するゲームだと勘違いして買ったが、昔の恋を忘れられず彼女は戻ってくるはず!だとヤケ酒食らっている主人公が、自分と完全にシンクロしてしまって目から変な汗が出てきてしまった。
今までプレイしてきたゲームという創作物だけじゃなく、実体験の中でそのゲーム(Dinner Dateがゲームかどうかは謎だけど)に対する評価が変わってしまったのだ。
ギャグゲーという批評を読んだからといって自分の中でDinner Dateに対する評価が変わるわけでもないし、逆に俺の「Dinner Date」に対する考え方を聞いたからといってギャグゲーという批評が変わるわけじゃないと思うが、それはそれでいいのである。
面白いと思ったら面白いと書けばいい、つまらないと思ったらつまらないと書けばいい、難しいと思ったら難しいと書けばいい、簡単だと思ったら簡単だと書けばいい。
他人を意識してレビューや批評を書いたら、それは「他人のレビュー・批評」だ。